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興正寺・神泉苑
朝は西本願寺の外塀沿いのツツジを見たり、すぐ南側の興正寺境内を散歩。

花のピークは過ぎていました。

かつては染め物や材木運搬に利用していた堀川ですが水はありません。

しかし再来年には水を流す計画があるそうで楽しみです。

紫蘭。

円頓山興正寺。荘厳な伽藍ですがお隣西本願寺が余りにも大きいので比較されると辛い・・・。

寺伝では親鸞聖人が1212年に山科に建立したのが始まりとされていますが定かではなく、7代目良源上人が事実上創建したとされています。
本願寺と共に1532年焼き討ちされ大阪に新たな本拠地を置きました。

御影堂の右側。
現在の位置に建立されたのは秀吉の時代で1591年。秀吉から土地をもらい本願寺と共に本拠地が大阪からここに移されました。

阿弥陀堂。向こうに見えるのが御影堂

明治9年、共にしてきた本願寺から独立し、真宗興正派本山となります。清水寺の近くには別院、富田林など数カ所あります。

御影堂との渡り廊下。
御影堂の廊下
御影堂。障子紙が真新しい。
明治35年火災により御影堂も阿弥陀堂も焼失し、同45年に再建された比較的新しい伽藍です。


5月はお祭りの多い季節でもあります。午後、七条通りでは松尾大社の還幸祭の御神輿、壬生寺近くの元祇園梛神社では維新の少年鼓笛隊が見られました。その後二条城の南にある神泉苑へチャリチャリ(?)

神泉苑は弘法大師が龍を呼んで雨を降らせた所。以来八大龍王が棲むと伝えられ朝廷は都の雨乞いの儀式を神泉苑で行うようになりました。
後白河法皇の時、長い間日照りが続くある日、雨乞いの儀式が行われます。都や奈良から身分の高い100人の僧侶が参じて経を読みます。その後に100人の白拍子が雨乞いの舞を順番に踊ります。しかし僧侶のお経が終わり、白拍子99人が舞い終わってもいっこうに雨の降る気配がありません。もうあきらめかけている中、最後の100人目の白拍子が舞い始めます。すると、愛宕山の方向に真っ黒な雲が現れ、洛中の空に広がって雷鳴をとどろかせ雨が降り出しました。その時舞っていた100人目の白拍子が静御前。義経は舞を踊る静御前を見初め、池のほとりで二人は初めて出会ったといいます。

松尾大社の還幸祭。
神幸祭、船渡御の写真

維新の鼓笛隊。
幕末維新、京北町で結成された山国隊。

神泉苑。二条城の南にあって、平安京造営と共に造られました。現在の池は江戸時代初期に再興されたもの。

雨を呼ぶ龍が棲むと云われ、弘法大師や陰陽師は雨乞いの儀式にその龍を呼んだと謂います。

大内裏からも近く桓武天皇はよくここへ赴いたそうです。
アヒルさんの名前は・・・ あーちゃんとピーちゃん♪ 平安時代はもっと大きな池だったらしく舟を浮かべて観月の夕べを行いました。 西陣にある岩上神社。大きな石はもともと神泉苑の近くにあった物で神泉苑で小僧に化けていたともいい、禿童石とも呼ばれています。
写真は別の日に撮ったもの。
 
2003年の神泉苑の写真があるページ
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