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      蹴上のつつじ疎水寺町御池下がる

蹴上の浄水場地図リンクは京都市民に飲料水等を供給する施設として明治45年に竣工しました。日本で最初の急速ろ過式の浄水場だそうです。丘の斜面に多くのつつじが植えられ毎年この時期3日間だけ公開されます。しかし年によって公開時期が見頃とならない事もあるそうです。
チャリンコを二条駅に置き地下鉄東西線で蹴上へ。地下鉄の出口から出ると道路を隔てた向かい側の丘はつつじが満開でした。
これは沈殿池です。硫酸ばんどという薬品を入れて原水中の細かいにごりや細菌を固まらせ沈殿させます。

咲いていない小木は種類が違うせいでしょうか。サツキなのかも知れません。

ろ過場です。まだ真新しく水も入っていません。工事中の黄色いフェンスが残っています。建物なども洒落ているので浄水施設とは思えません。
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展望台ではありません。配水池です。出来上がった水をポンプで汲み上げて蓄えておく所です。この日は水はなく格好の展望台です。

展望台、いえ配水池から比叡山を望みます。手前が南禅寺の有名な三門です。その向こうが東山高校です。更に向こうの山裾あたりが紅葉で有名な永観堂ですが写真ではわかりにくいです。。新緑が映えてとってもいい眺めです。
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与謝野晶子の歌碑です。「御目ざめの鐘は知恩院聖護院 いでて見たまへ紫の水」 神戸での文学関係の会合の帰り、当時この付近にあった旅館に鉄幹と落ち合い泊まった折に詠んだ歌です。
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前の写真にあったろ過場のアップです。
最初の沈殿池で粗方きれいにした水をここで更にきれいにし飲めるようにするのです。そのあと塩素を加えて殺菌し配水池に送られ家庭や工場などに送られます。
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浄水場から南禅寺に向かいます。お寺でなく水路閣が見たくなりました。


南禅寺前西側沿いのインクラインのレールです。傾斜地をロープを使って荷物を載せた舟を台車で運びました。台車は後の写真にあります。

南禅寺の門前には湯豆腐の店や料亭等が並んでいます。そんな中にピッカピカの赤いスポーツカーはかなり目立ちます。
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赤れんがの美しいアーチが印象的な水路閣。この上を琵琶湖からの水が流れ松ヶ崎の浄水場へ運んでいます。地図リンク

水路閣の脇から疎水に上がれます。柵の向こうが水路閣の上で更に哲学の道沿いを流れます。

疎水をさかのぼり歩いてみます。新緑の紅葉が鮮やかです。秋にも来ようか、と思ってしまいます。
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こんな場所に茅葺の家。疎水の施設がそばにあり柵と物置さえなければ・・・・

長くて巨大なパイプが現れました。浄水場につながっているのでしょうか。

インクラインの台車と舟です。左のハンドルみたいものにワイヤーロープをかけて動かした? 動力は水力発電を利用しました。
公園らしい所に出ました。ここから蹴上の浄水場の建物が見えます。琵琶湖疎水の設計者田辺朔郎の銅像があります。
明治になって京都が東京への遷都により寂れてしまう事を憂い大規模な疎水事業計画がなされその中心的リーダーでした。。また水力発電所の建設を発案し電灯や日本で初めての路面電車に利用しました。それらをすべて設計したのが田辺朔郎です。京都の近代化に捧げた功労者として京都市民は知っておかなくてはなりません。

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帰りに寺町御池に寄り道。(おそらく)関西一閑散な地下商店街ゼスト御池の近未来的(?)出入り口から出て寺町商店街へ。本能寺総門ななめ向かいの小松屋できんつばを買いました。

明智光秀の「敵は本能寺にあり」で有名な本能寺です。寺町御池を南にはいって(京都では下がる)すぐです。信長時代はここから約1キロあまり西にいった場所にありました。地図リンク

本堂。まわりは繁華街なのでビルに囲まれています。
実は本能寺1415年創建以来6度も火災にあって焼失、その度に再建されています。「本能寺の変」(1582年)は4度目の焼失にあたります。

度重なる火災に寺が行った防火対策の一つを紹介します。
総門の寺名の一部を拡大すると・・・・文字「能」のつくりが違います。二つの「ヒ」が「去」になっています。
「能」だと「ヒ」が重なる、言い換えれば「火が重なる」となるので縁起が悪いから変えようということになりました。
そこで「ヒが去る」という意味から「去」にしてしまったのです。
以来火災は起きていないそうです。

織田信長公の墓所。
言うまでもなく信長は「本能寺の変」で自害、慰霊碑には森蘭丸の名前もあります。

右の写真
寺町通りには古書店が何軒かあります。右は中国風の店構えの創業123年の仏教専門書店「其中堂」。でもようはりまへん。眺めるだけの京あられでした。

コーヒー店のスマートで一杯。おばさんウエイトレスばかりの懐かしい雰囲気の店でおっさんでも入りやすいです。勿論若い人もどうぞ。

「本能寺の変」の謎

本能寺の変は明智光秀が主君織田信長に謀反を起こし、信長のいる本能寺を襲撃、焼き討ちして殺害を企てた事件とされています。
しかし、謎も多く、本当の首謀者は後に天下を取った秀吉という説さえあり、ライバルの光秀と共謀し、その光秀を裏切ったと言うのです。
結構有名な面白い説があります。光秀は山崎の戦いに敗れ坂本城に逃げ帰る途中、土民に竹槍で殺されたとされてますが、事実は比叡山に逃げ、南光坊天海という僧侶に化け、その後の徳川家の黒幕として君臨するというのです。それを裏付ける証拠として―家康の墓は日光東照宮ですが、あの建物の中には明智光秀の家紋である桔梗の紋が多くある事。また僧でありながら戦の作戦会議に意見を言ったりもしています。更には家光の養母、お福(春日の局)は天海坊と初めて会ったにもかかわらず、平伏して「お久しゅうございます」と言ったという。お福は光秀の妹の孫であり同じ一族です。天海坊=光秀であるなら、筋が通るというのです。更には家光は光秀とお福の間の子、と言うとんだ説まであるのです。家光の「家」は家康だが「光」は光秀からとったと言うのです。光秀は長く生きて自分の子、家光に念願の天下を取らせたという突飛押しな話。他にも色々ありますが、きりがないのでこの辺で。




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