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東寺

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大阪方面から国道1号線やJRで来ると迎えてくれる大きな五重塔。空海こと弘法大師が真言密教の根本道場として定めた東寺。弘法市(弘法さん)で知られ毎月21日(弘法大師の命日)には露天が境内に埋め尽くされ多くの観光客や市民が訪れます。
自宅にも近く子供の頃から馴染みのある東寺ですが、あらためて尋ねてみました。なお写真の一部には尋ねた日以外の物も含まれています。

大宮通側の門は2つあるのですがこちらの北よりの門(慶賀門)しか開いていません。もう一方の東大門は「不開門」(あけずのもん)と呼ばれ閉じられたままです。

660年以上閉じられたまま(?)の東大門
後日撮影
1336年6月30日足利尊氏は本陣である東寺に攻めてくる2万の新田義貞、名和長年らの軍と戦っていました。しかし苦戦を強いられ、しかたなく敗走する足利軍を境内に入れ東大門を閉じてしまいました。東寺を取り囲んだ新田軍らは一騎打ちを申し立てるが本陣の窮地の知らせを聞いて各地の市街戦から駆けつけてきた足利軍に攻撃され形勢は逆転し敗走、その後の足利軍に勝利をもたらす転機となりました。足利尊氏が九死に一生を得た門だったのです。もしこの時東大門を閉めなかったら足利尊氏は滅亡し歴史が変わっていたかも知れないのです。以来門は閉じられたまま今日に至っているそうです。今も当時の矢の傷跡が残っているのですが門そのものが傷んでいて私にはわかりませんでした。

国宝の大師堂(西院御影堂)北側
西門を入った右側にあります。
室町時代に造られた弘法大師の住居。弘法大師信仰の中心で参拝者が絶えません。中には国宝の大師像が安置されています。大師像を彫った康勝は六波羅蜜寺の空也上人立像を彫ったことでも有名です。

大師堂南側
空海は18歳で官吏養成機関であった大学に入学し20歳で大学を辞め出家したといいます。これは当時としては大変遅かったのですが、人並みはずれた智恵の持ち主の空海には2年間の大学生活と短期間の修行で十分だったのでしょう。

百日紅(さるすべり)は街中でも見かける夏の花。
どうして「さるすべり」と読むのだろう?

寺伝によると江戸時代京都に強風が吹き荒れ五重塔が傾き、傾いた反対の方向(北側)に穴を掘って直したというウソみたいな話があります。その穴の跡がこの蓮の咲く瓢箪池だそうです。

東寺の外堀にも亀が多く通称「亀寺」と呼ぼうとしているのは私だけかな。
のんびりしていいですなあ。
でも結構生存競争あったりして。
瓢箪池お山の大将争奪戦の勝利者はこちらを向いている亀君でした。

瓢箪池の蓮



講堂。室町時代建築。東寺の創建時なかった建物です。ここには大日如来を中心に21体の仏像が安置されています。しかもそのうち平安時代前期に作られた15体が国宝というから凄いです。仏像とその配置は立体曼荼羅(曼荼羅とは密教の教えをわかりやすく絵にした物で大日如来がその中心に位置しています)を表現しているそうです。それだけでなく東寺の伽藍配置そのものも曼荼羅を意識しており東寺境内の真中心の建物が講堂、その講堂の中央には曼荼羅の中央にある大日如来を置いて一致させています。建物は重要文化財です。

金堂は言うなれば本堂です。創建は796年(遷都の2年後)で最初に作られた建物です。1486年焼失し豊臣秀頼の発願で1603年に再興。
最も大きな伽藍でここには薬師三尊と十二神将があります。
講堂、金堂いずれも内部撮影禁止ですが堂内の荘厳な雰囲気は格別の物があります。物見遊山だけで信仰心の希薄な私は仏像に怒られそうです。

東寺が創建された時(796年)、広い敷地には金堂の他にはなにもなかったといいます。金堂以外の建物は空海に寺が与えられた時(823年)より後に建てられました。

京都のかつてのシンボルタワー。ライトに照らされて浮かび上がり美しい姿です。昔はライトの色が青かったのですが今の方がふさわしいです。京都人は旅先から帰って来た時この姿を見て「帰ってきた!」と実感してきました。今は京都タワーに一歩譲っていますが。
8/24撮影

京に都が置かれた時は寺といえば東寺と西寺しかありませんでした。日本一お寺の多い今の京都の姿からは想像も出来ません。
西寺も東寺と同じ国家鎮護を目的に同時に創建されましたが990年にほとんどを焼失しました。こちらは空海のような民間信仰の場でなかった事もあり平安京の衰退を背景に力を失いやがて鎌倉時代に灰寺となりました。やはり民衆に支持されねばなんでも滅びていくんですね。
8/25撮影
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五重塔
東寺を象徴する日本一高い五重塔は京都タワーが出来るまでは京都を代表するシンボルタワーでした。この塔について少し説明します。
高さは55m
東寺が創建された時から計画されていたにも拘らず完成したのは877年、創建から実に81年も後でした。ところが1055年落雷を受けて焼失したのをはじめ再建と焼失を4度繰り返しています。現在の塔が5代目で1644年に徳川家光の寄進で建てられ歴代の中では一番長い寿命です。しかし前の4代目は再建42年後で落雷により焼失するという短命さでした。
雷には弱い五重塔でしたが不思議な事に地震や台風で倒壊することはありませんでした。塔の中心には心柱といって1本の大きな柱が唯一上まで貫いているのですがこれは頂上の相輪を支えているにすぎません。ではどうやって塔が支えられているかと言えば、一層ごとに独立した短い木の複雑な組み合わせにより外的な力を吸収したり分散したりして逃すような構造で支えています。それにより現在の高層ビルより振動周期が長く耐震性に優れていると言われています。

平安時代東寺と西寺の間を通っていた朱雀大路の入り口に大きな門がありました。いわずと知れた羅生門です。その場所にあるお地蔵さんです。空海の力を妬んでいた西寺の守敏の命により放たれた矢を空海の身代わりに受けたと伝えられています。西寺が消滅したのもうなずける話です。
8/25撮影

お地蔵さんの右隣。この奥の小さな児童公園に前からある(明治時代)石碑が建っています。
5月に撮影
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羅生門近くの民家
5月に撮影
今回の訪問と境内で買った祥伝社黄金文庫「東寺の謎」(三浦俊良著)を読み以前より東寺さんが身近になったような気がします。
さてそろそろ亀さんに会いに行こうか・・・・・弘法大師じゃなくて亀? ハイ、友だちのカメです。カメラでもガメラでもいいんですが。九条通の南側外堀をのぞくと亀首を水面から出して寄ってきます。その姿がユーモラスでかわいいと思うのは私だけかな?。
なお本文作成にあたり前記の本を参考にしています。



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