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    飛鳥の里

近鉄電車で明日香村へ行き、高松塚古墳や甘樫丘、酒船石遺跡などをレンタサイクルで巡りました。遷都1300年で賑わう奈良とは対照的に、静かでのんびりした飛鳥の里でした。
橿原神宮前行きの急行が出たばっかりなので、間もなく発車する近鉄特急に乗ります。
初めての伊勢志摩ライナー。京都駅からはこの1本のみが運転。
今回は見られないけれどシーサイドカフェ(営業はしていません)の大きな窓から見る海は格別な筈。
大和八木で一旦降りて普通電車に乗り換え。橿原神宮でまた乗り換えて飛鳥へ。
飛鳥駅前で借りたレンタサイクルで高松塚古墳へ。
古墳から壁画が発見された当時のフィーバーぶりは今でも憶えています。しかし文化庁の保存・管理の不手際で発見当初の状態が著しく損なわれました。
古墳の下にある鉄の扉(写真左)はどこに通じているのだろう?
解体された石室? 腐っていましたがお供え物がしてありました。
憤丘は1300年前の姿を想定した形で、盛り土と芝生で整備されています。しかし外観だけでこの中に石室はありません。2006年に壁画を修理する為に石室を解体し取り出されました。後に石室と壁画を元の場所に戻すようですが、果たして解体した石室を元通り戻すなんて事出来るのでしょうか?
壁画の原寸大模型やレプリカの埋葬品がすぐそばの壁画館にありますが入館しません。本物の壁画は修理中で時々公開(要予約)しているようです。
高松塚古墳は国立飛鳥歴史公園の中の高松塚周辺地区と呼ばれる中にあり、他に石舞台地区、祝戸地区、甘樫丘地区、キトラ古墳周辺地区の計5カ所あります。
芝生広場には八重桜がまだ咲いていました。

連休の明日からイベントがあるようで、コイノボリやテントが張られていました。
川原寺跡から見た橘寺。このあたりは聖徳太子誕生の地。太子自ら創建されたと言われています。
今日は遠足の小学生がやたらに多い。
川原寺はここにあった飛鳥の四大寺のひとつ。
建物の一部は料理屋さんを兼ねており、正面から撮るとそのノボリが目立ってしまいました。
創建は古く弘法大師とも縁がある由緒あるお寺です。
金堂や塔、廻廊や門の遺構が残されていて、当時の姿を偲ぶことが出来ます。
甘樫丘展望台を目指します。
甘樫丘には展望台がふたつありますが、眺めは北側のこちらが良いです。
展望台からの東側の眺め
飛鳥寺を中心にアップ
北側から西側にかけてのパノラマ画像
大和三山が見えます。左から畝傍山(うねびやま)、耳成山、天香具山(あめのかぐやま又はあまのかぐやま)の一部分
天香具山を望む
甘樫丘東麓には蘇我蝦夷・入鹿親子が住んでいました。蘇我蝦夷の父はあの石舞台古墳の埋葬者だと考えられている蘇我馬子です。

  甘樫丘
ここで歴史をちょっと簡単におさらいしておきます。興味のない人、詳しい人は無視して飛ばして下さい。
欽明天皇の時代(540年〜570年)、仏教派の蘇我氏と神道派で廃仏派の物部氏は宗教問題絡みで権力闘争を繰り返していました。蘇我馬子は丁未の変で廃仏派の物部氏を倒し大和王権において権力を掌握します。蘇我馬子は仏教を広めるために日本で最初の仏教寺院飛鳥寺を築き、蘇我氏の血を引く推古天皇を立てその甥・聖徳太子に執政させ蘇我一族による権力を確立させます。飛鳥時代の始まりです。この頃に小野妹子を遣隋使として送りますが隋の皇帝は日本を国家として認めませんでした。
次代の蝦夷は遣唐使を送って大陸の文化や仏教、技術を積極的に取り入れて大和の近代化を計りました。しかし馬子、推古天皇の亡き後は天皇を差し置いて権力を振るいます。
入鹿の時代になると専横政治は頂点を極めます。新羅や高句麗とも百済と同じように対等な国交を結ぼうとし、これに反対した聖徳太子の子で次期天皇候補を目されていた山背皇子(やましろのおうじ)を襲撃、王と一族を自殺に追いやります。天皇を軽んじた目にあまる横暴ぶりに業を煮やした中大兄皇子(天智天皇)は中臣鎌子(後の中臣鎌足、藤原鎌足、ややこしいなあ、おまけに中臣鎌子という名前の歴史上人物は他にもいるし)らと共謀して蘇我入鹿を暗殺し、蝦夷は邸に火をつけ自殺します(乙巳の変)。天智天皇によって大化の改新(645年)が行われます。
蘇我蝦夷・入鹿親子の邸跡は近年の調査で大きな武器庫や頑丈な塀等があって要塞のようだったと言います。大陸からの侵略に備えたとか・・・・
飛鳥寺付近の古い町並
飛鳥寺前を通過して酒船石遺跡の亀形石像物などを見学。
酒船石というのは元々すぐそばの丘にある遺跡で、この亀形石造物と小判型石像物は平成12年に発掘され大きな話題になりました。
祭祀を行ったと考えられていますが定かではないようです。
亀形石造物
亀形石造物の南は竹藪の丘で、その上に酒船石があります。
どちらも何の為に使われたのか謎が多く、想像を巡らすには面白い場所です。
すぐ近くの奈良県立万葉文化館で開催中の平山郁夫展を見に行きました。
せんとくんがお出迎え。
平山郁夫氏の絵はそのスケールの大きさでよく知られていますが、圧倒されるのは絵のスケールもありますが、砂漠や山岳地帯というシルクロードの厳しい大自然の中に身を置いて描かれただけに真に迫る物があります。
その一方でユネスコの親善大使として戦争などで危機にある文化遺産の保護や救済に尽力されてこられました。歴史の生き証人としての遺跡や文化財を守ることがご自身にとっての平和の為の運動だと言っておられます。アンコールワットの遺跡調査、タリバンのバーミアン大仏破壊に対する抗議声明の呼びかけ、高句麗古墳群(北朝鮮)の世界遺産登録に尽力等、アジア各国を何度も訪問され、世界に向けた文化交流の功績は計り知れません。
平山氏は広島の生口島生まれで、学徒勤労で働いていた広島市内の陸軍兵器補給廠で被爆に遭われました。被爆の後遺症もあったそうですが、被爆体験による強い平和への願いと使命感が活動の原動力になったようです。画家としても人としても最も尊敬出来る素晴らしい人だったと思います。
高松塚古墳から川原寺へ行く途中に寄った時は亀石が小学生に占拠されていたので、再度の訪問でパチリ。
癒されますなあ、そのお姿。
 PENTAX K200D + TAMRON AF18-200 F3.5-6.3XR
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