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 善峯寺の紅葉

 京都西山の古刹・善峯寺は源算上人により1030年に創建されましたが、応仁の乱で諸堂が焼失しました。その後、徳川綱吉の実母桂昌院の寄進で復興されたことで知られています。
桂昌院の元の名は玉子と言って京都堀川の八百屋の娘でした。父が他界してしばらく母子で父が信仰していた善峯寺に奉公に出ていました。やがて運良く武士の養女になり、更には公家とも縁が出来て、13歳の時に尼僧の侍女として3代将軍家光の元へお供する機会に恵まれます。これがまさかの運命の大転機。当初は尼僧が将軍家光に挨拶して終わり帰るつもりでしたが二人とも家光に気に入られて玉子は側室お万の腰元となりました。それだけでも家柄を重んじる武家社会ではほとんど例がない話。玉子は美貌もあってか家光に特に気に入られ、とうとう将軍の側室という高い地位に登りつめました。玉子が輿に乗って将軍家に嫁いだ事から所謂「玉の輿」と呼ばれるようになったという説を御存じの人も多いかと思います。
更に子・綱吉が5代将軍になると桂昌院として最高の権力を手にします。そんな桂昌院ではあるものの自分は父が善峯寺に参詣して授かった命である事に報いるために、母子でお世話になった事もある善峯寺の復興を思い立ったと言います。また同じ西山の金蔵寺や勝持寺の復興にも寄与しました。
こうして見ると信仰篤く、高い地位を得ても感謝と恩に報いる気高い女性に思えますが、綱吉が「生類憐みの令」で生き物の殺生を禁じて庶民を苦しめたのは、むしろ桂昌院の信仰心がきっかけとも言われています。町娘でありながら、若くしてとんとん拍子の世間知らずのお嬢さんは信仰に篤くても庶民の生活など眼中になかったのでしょう。
桂昌院に限らず昔も今も国を動かす政治家のほとんどは庶民には目もくれないし庶民感覚など皆無。日本の政治家のほとんどは選挙などの表舞台だけ愛想よく振る舞っているだけの狐や狸です。ご注意あれ。


 PENTAX K-5 + DA18-135mm F3.5-5.6 DC WR

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